写真家・落合陽一・寂びたデジタル

写真家・落合陽一・寂びたデジタル

僕はメディアアーティスト、写真家としての落合陽一がとても好きです。
ライカで取られるあの独特の世界観は引き寄せられる。

質量への憧憬

影使いが上手くて影の余白、光の余韻が眼を奪ってくれる。
写真というものに景色を残すということは常に変化する時間への挑戦状のよう、切り取った世界は完全に質量として残り続ける。
確実になくなるものから持続可能なものへ・・などたくさんのことを考えさせてくれる作品たちがいつも心を動かしてくれる。

メディアアーティスト落合陽一の世界観

落合 陽一(おちあい よういち、1987年9月16日 – )は、日本研究者大学教員、博士(学際情報学)、メディアアーティスト実業家

Wikipedia
ヨウジヤマモト×落合陽一

落合陽一の「価値観」デジタルネイチャーとは?

〈自然〉と〈デジタル〉の融合。寂びたデジタルが行き着く〈新たな自然〉

落合陽一 デジタルネイチャー

寂びたデジタルというのが日本的というか共感できる部分で
落合さんの写真でも徹底して貫かれている”詫び寂び”のようなイメージ
日本人にはDNAから刷り込まれているから共感できる人も多いだろうと思う

そもそも自然ってのは何だろう?と考えると無理をしていたり、頑張りすぎているというのは決して自然ではない。

なのでなるべくしてなった、何の負荷もなく当然のように行き着いた先にあるものという考え方になるとデジタルネイチャーというのはものすごくスッと入ってくる。

”自然とデジタルの融合”

は当然にこれから起こっていくことであり必然的に誰かがけん引していくんだろうな、それに選ばれたのが落合陽一だったということ。

このインタビューの中にある、

 サバって、背中は波の擬態をしているんですよ。そしてお腹は太陽の擬態をしている。上からも下からも食べられにくいようにね。だから、そのサバを真横から切り取ると、下が太陽で上が海面の「風景画」になるんです。これが「計算機自然」。サバはずっと上に太陽がある海で生き続けてきたことで、見た目がその環境そのままになってしまった。DNAを演算し続けたら、体が風景を切り取ったんですよ。綺麗ですよね。そしてこの作品自体も、経年で変化し続けていく。

と言う一文に自然の中にあるデジタルに気づくということの美しさのようなものを感じました。
僕は料理人ですが、そんなことを思って一度もサバと触れ合ったこともなかったです。
もっとわかりやすく言うと今あるすべての質量を持ったものたちは美しさの塊でありDNAを演算し続けた結果ということになります。
そして今も変化している、そこに無理のないことこそ落合さんの言う
デジタルネイチャーがあるのかな?とか自分は考えたりします。

僕しか美しいと思わなそうなモノが世の中いっぱいある

時代が追いついたとかそんなことは絶対になくて落合陽一さんの言葉や話を聞いているとなぜか自分も同じ土俵にいるかのような感覚になってしまうのは彼のなせる技なのでしょうか?

落合陽一しか美しいと思わなそうなものを美しいと言ってみる人々
滑稽ですがそれも自然なのかぁ。。

続く。

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