
今日は思っていることをとりあえず外に出して整合を取る。
料理人について
ツイッターにいるだけもたくさんの料理人がいる。
多くの料理人は才能、技術もとても優れていらっしゃり知識もとても豊富だ
知名度も高い、一言つぶやけばたくさんの「いいね」が付く
僕は自分の影響力によってお金が動く範囲のことを経済圏と呼んでいる
我々のような弱者はこの経済圏を広げすぎるといろいろ薄まって大きな企業に喰われる
経済圏を狭めすぎると某予約の取れないお店たちのように新規を取らずに常連さんとともに年を取り滅びる
と思っている、別にこれは持論なのでそんなこともないのかもしれないけれど少なくとも僕はそう思っている。
ミシュランが幸せをもたらしてくれるのかもわからないし、ゴヨなんちゃらも同じだ。
忙しさと幸せがイコールにならない、なぜか常に料理人は矛盾をはらんでいる
家庭の料理がおいしいのはそこに濃密な対話があるからだ
これは経済圏が広がれば広がるほど薄れる
確かにおいしいけれどリピートにはたどり着かない
SNSにいる人たちはこの経済圏をうまい塩梅で保つためにいろいろなことを仕掛けている。
書いてて思ったけどこれは書きたいことじゃないな、まとまりが悪い。
結果、自分がどうありたいか、どうなりたいのかを考える。
僕は退廃的かつ耽美的という概念が非常に好きだ
世界は決して美しいものばかりではない、むしろ見せかけの美しい世界だと思っている。

昨年のREDに出したこの作品もテーマは鳥のお墓から来ている。
料理は決して美しいものではない、死の先にある
これは最近自分の中に芽生えた感情なのでまだまだ表現としてまとまっていないが、華やかさの中にもどこか憂いを帯びているような料理
生を感じてはいけない料理。
食事の本質は自分とは違うものを破壊して
自らの同一性を維持しつつ
新たな自己 を作り上げるという営み
という認識になってきている。
この辺りはもっと深く「食事」とは何かについて理解しないといけないと思っているし
ニンゲンがここまで進化できたのは火を手に入れてより良い状態で
食事が出来るようになったこと。それをより優れたものに昇華させることの出来る料理人が現れたことだと思っている。
ニンゲンの進化の一端は間違いなく料理人が握っている
しかし現代、その過去の料理人たちが作り出した美食やおいしい料理があふれていることによって
結果、地球の食材は継続可能ではなくなってきている。
料理人がおいしいものを作った結果、進化したニンゲンは豊かになった
ニンゲンが豊かになった結果、地球は枯れていっている
誰かにとっての幸せは誰かにとっての幸せとは限らない
料理人は常に矛盾をはらんでいる
最近頭がごちゃごちゃしているので吐き出してみる。
コラムと名乗っている以上読み物としての面白さを考えないといけないなぁ