
あたりまえにあると思っていた明日が来ないとしたら
あたりまえに明日もいつも通りに仕事に行くと思っていたら
あたりまえに外に出て人と話が出来ると思っていたら
あたりまえに楽しい食事やバーでのヒトトキを過ごせると思っていたら
日常というのは突然に非日常に変わる
表裏一体という言葉がこれほど適しているとは
先人たちは一体どんな経験からこのような言葉を考えたのだろう・・
日常に潜んでいる非日常は簡単にやってきた
ほぼ二ヵ月だ、僕は二ヵ月料理から遠ざかっている
それでも僕が正気で居られるのは
その辺の料理狂の人たちとは違い
きっと仕事として料理をやっているからなのだろう・・・
僕はおそらく料理があまり好きではない
料理を作らないと死んでしまうように狂っているわけでもないし
作れないなら作れないでそれなりに今の境遇を楽しんでいる
なんだろうなこの感覚は
好きだけど好きではないというのが正しいのだろう
いつでもそうだ
僕は大概の事は”そつ”なくこなせる、100点ではない常に80点くらいのニンゲンである
だから努力に努力を重ねて一つのことに捧げている人達には遠く及ぶことはないし
その努力をすることはできない。
天才は99%の努力って意味は
どれだけの時間をささげることが出来るか?という話だ
今を生きるトップスターの人々の努力の量は我々が思っている何十倍と多いのだと思う、そして尋常じゃない努力による経験値のなかで最適解を見つける事ができる、引き出しの多さが違う。
同じ時間をかければ同じようになれるかといえば個体差はあると思うが
出来ないならそれ以上、まだできないならそれ以上というように
”できるまでやる”ということが大事なんだと思う。
僕にはそれが出来ない。
憧れやなりたい自分というものは常に存在している
でも、僕には出来ない。
やりたくない訳ではない、出来ないのだ。
これはおそらく言い訳になるのだろうな。
自分にとって夢中になれるコトってのは何なのだろう?
息を吐くように料理のことを考えている人たちに失礼かもしれないが
僕にとっては息を吐くこと以外にあたりまえに出来ることが存在していない
それでも料理は続けるし、僕は料理人である
自分なりの答えを考えてみよう。